「ヘーゲルと国際関係理論」

「ヘーゲルと国際関係理論」

「ヘーゲルシステムの一般的パラダイム」

ヘーゲルの哲学が国際関係理論に与えた影響を詳しく見てみましょう。特にマルクス主義と自由主義でその影響は顕著ですが、ヘーゲルはリアリズムには大きな影響を与えていません。このトピックをさらに深く掘り下げてみましょう。

ヘーゲルは『法の哲学』において自らの政治観を最も包括的に展開しました[1]。これらの見解は彼の哲学全体に根ざしており、彼の思想体系の不可欠な部分です。しかし、ヘーゲルの政治理論は独自の方法で提示されており、彼の国際政治に関する見解を理解するためには、まずその概要を理解する必要があります。

まず、ヘーゲル思想の基本的なパラダイムについて触れる価値があります。これはフィヒテによって定式化された三段論法、すなわち「テーゼ - アンチテーゼ - シンテーゼ」に基づいています[2]。フィヒテはこれを新プラトン主義の伝統から取り入れました。ヘーゲル自身は「テーゼ - アンチテーゼ - シンテーゼ」という言葉を使っていませんが、彼の弁証法の構造は常に類似した三段論法のスキームを中心に展開しています。

ヘーゲルによると、すべての始まりは、イデア・イン・セルフ、すなわち主観的精神です。これが主要なテーゼです。次に否定の瞬間がやってきます。精神は自己否定し、自己疎外し、自然へと変わります。この否定の瞬間、精神は自己内に留まらず、他者のために存在するようになります。しかし、自然や物質は始まりではありません。それは否定の一瞬に過ぎません。従って、それは否定的です。否定的であるということは、それが否定するもの、すなわち、それが何であるかの取り消しであり、同時に昇華と高揚(Aufhebung)であることを示唆しています[3]。これら二つの弁証法的瞬間の間の緊張は、自然を組織し、動かす精神として現れます。外的存在の層は「増強」され、物理的・機械的なものから化学的なものへ、そして最終的には有機的なものへと進化します。この精神の展開過程がマインドです。人間において、マインドが意識を形成します。

有機的生命と人間の意識の組み合わせが第三の瞬間、すなわち否定の否定、シンテーゼを形成します。人間において、精神は最終段階に入り、人間を通じてイデアが自己を観察し、精神が絶対的精神、すなわち自己のためのイデアへと進化を遂げるのです。

"これがヘーゲルの体系の全体像である。ヘーゲルは『権利の哲学』において、人間とその「潜在化」の瞬間、すなわち自己顕示的精神の諸層を貫く運動の弁証法のみを考察している。"

「権利哲学におけるヘーゲルの思想構造」

ヘーゲルの「権利哲学」における思想の構造を詳しく見ていきましょう。

ヘーゲルは抽象的な法から始めます。これは純粋な法学的アプローチであり、個人(法学の意味での人格)を確立します。通常の法は、個人が他の個人や周囲の世界の対象と関係を築く方法を規制しますが、ここでは主体と客体の関係を定義するデカルト的モデルが仮定されています。ヘーゲルは、この段階の法には独自の存在論があり、「日常意識」の働きを前提としています。法自体は抽象に関わる純粋な凡庸さであり哲学的な内容とは無縁です。したがって法は国家や政治に先立ち、古代社会の分析を通じて確認することができます。しかしヘーゲルにとって重要なのは、この領域を概念的なレベルでまず理解することにあり、法的関係とは個人が周囲の世界との関係を直接的な経験のレベルで構築する基本的な抽象です。純粋に法学的な意味での法とは人間存在の基盤であり、その外的限界です。

ここでヘーゲルは、ローマ法や後にカール・シュミットが「法治主義」と呼ぶことになるヨーロッパの法の解釈の伝統を利用しています[4]。

ヘーゲルは、次のレベルで自律的主体が初めて出現するのは、道徳(die Moralität)の分野であると言い、彼はカントの実践理性に注目します。法から道徳への移行を、人間が自己反省の初期段階を獲得し、それまでの法学的論理に基づく役割と地位の厳格な分布に対して自律性を獲得する過程として説明されています。道徳的主体は法的(物理的)個人とは一致せず、個人としての個体以上の存在です。他の個人や外部世界の対象との関係も複雑化しますが、ヘーゲルはこのような道徳的人間を法における厳格に定められた社会的結びつきから内面性への移行、すなわち自己反省への没入の瞬間として捉えています。これは、個人的な瞑想のために社会から距離を置く懐疑論者などは、キニックのディオゲネスの精神に沿った行動です。

次に、ヘーゲルが「精神」(Geist)と呼ぶものの実際の働きが始まるのが、政治の領域です。ここで彼の教えの本質が現れます。この段階ではヘーゲルはアリストテレスに完全に従っています。ヘーゲルはこの第三領域を「道徳」(die Sittlichkeit)と呼び、これはアリストテレスの倫理(ἠθική, ἦθος)の概念に相当します。一般に同義語と見なされがちな「道徳」と「倫理」という用語を、ヘーゲルは根本的に区別しており、通常後のヘーゲル派もヘーゲルに従っています。道徳とは、個人が自己の内面に没入することであり、純粋に法学的な抽象から自己の存在を切り離す最初の能力です。道徳では、人間はすでに反省的に道徳的主体性を獲得した生活の能動的実践形態に入りますが、今回は高次の精神が意識的な道徳的行動を通じて自己実現することを目指しています。これが社会の誕生の瞬間です。

私たちは法、道徳、道徳(社会)という段階を経て第三レベルに進みます。

再び三重の分割が現れます。ヘーゲルによって道徳の領域は、家族、市民社会、国家という三つの瞬間に分割され、倫理とその発展に関するアリストテレスの思想の正確な継承です。アリストテレスによれば、政治は倫理の一部であり、そこでは適正なもの、つまりデオントロジーが問われます。

「市民社会における"家族の中の存在"とその否定」

ヘーゲルの「権利哲学」思考の構造に於ける最初の段階として、個人が自己を家族として実現しています。この段階で、道徳的主体は最初に自己の意志を具体的な行動を通して表現し、個人を最初の共同体である家族に捧げることで犠牲にします。ヘーゲルによれば、家族は純粋に精神的な現象です。それは物理的なものがほとんどなく、道徳的存在(Sittlichkeit)の具体性です。家族の中で人間は初めて精神として、実質的で具体的な観念として完全に自己を確立し、主体の意識と意志は家族の中で明らかになります。

社会は、個々の家族が有機的な全体として形成され、各個人は他のメンバーと道徳的な一体感を持ち、純粋に法的な関係(個人対個人、主体対客体)も、道徳的主体の離脱も存在しません。家族の中での"存在"は"自己超越"と、抽象的な人間性から"具体的なものへの移行"と言えます。

ヘーゲルは次の段階を弁証法的に考える事によって、家族から市民社会(bürgerliche Gesellschaft)へと進みます。すでに存在する複数の家族が形成する領域であり、ここで人間は家族の有機的な全体性から疎外される否定的な瞬間です。市民社会は家族という一体的な有機体を否定しますが、すべての始まりの法と異なる点は、市民社会が家族の中で現れた精神的で具体的な行動主体を基に構築されている事です。ヘーゲルの解釈における市民社会に於いて、精神が家族での征服から見かけ上後退する否定的な現象です。啓蒙主義が市民社会(すなわち資本主義、ビュルガー=ブルジョワ)を主要な指標としたことが、ヘーゲルの啓蒙主義に対する態度を定義づけています。市民社会とは精神の見かけ上の落ち込みであり否定ですが、次の弁証法的転回には必要です。この転回は、国家(der Staat)における市民社会の克服です。

「市民社会を克服する国家」

"家族-テーゼ" "市民社会-アンチテーゼ" "国家(der Staat)" はこれらを統合する "シンテーゼ" である。

ヘーゲルの「権利哲学」において、国家(der Staat)が精神の最も完全な表現とされています。国家では市民社会の成員が、家族の段階で道徳的主体としての自己認識と社会的自律性を獲得し、自由な社会奉仕を通じて自己を超越します。家族において個人が自己の存在を犠牲にするように、国家では市民がより高い次元で自己を犠牲にし、全体への奉仕を超越します。家族だけでなく精神のより高次の総合的形態にも貢献します。

国家の段階では、市民社会(bürgerliche Gesellschaft)は民族(das Volk)に変化します。

ハイデガーは「権利の哲学」について、民族(das Volk)はDaseinに相当し、国家(der Staat)はSein(ハイデガー的意味で)であると鋭く指摘しています - Staat als Seyn des Volkes [5]。

ヘーゲルによると、国家(der Staat)は道徳(Sittlichkeit)の頂点であり、精神の展開の最高の地平を体現しています。国家は純粋な精神であり、理性的で意志を持っています。

さらに国家の最も濃密な形態は君主であると主張し、ヘーゲルは立憲君主主義者でした。君主の姿において精神の弁証法は頂点に達し、国家の全構成員は君主に仕え、そして君主はイデアに仕えます。

最後に、国家に対応する精神の位相の中で、ヘーゲルは3つの瞬間を区別します。再び、テーゼ - アンチテーゼ - シンテーゼの構造です。

国家そのもの(der Staat)が一つの統一された有機体と言うテーゼとして登場する事によって、その最大の展開を達成します。しかし国家は唯一ではなく複数存在し、これにより国際関係のシステムが生まれ、他の国家の存在が最初の国家の主権を制限します。これは再び、否定-否定です。このようにして、精神の展開の瞬間の連鎖において国際関係のシステムは、否定の表現となります。

この否定(アンチテーゼ)は、普遍的イデア、すなわち哲学的帝国(das Reich)の肯定によって最終的に解消されます。ここで歴史は終焉を迎えて精神はすべての段階を経て完全かつ絶対的な開示に至ります。初めはイデア・イン・セルフであり、自然における自己疎外(アンチテーゼ)を通じてイデア・フォア・アナザーとなり、世界帝国(das Reich)ではイデア・フォア・セルフになります。しかしイデア(ἰδέα)は可視的なものであり、イデア以外に他者が存在しない場合にはそれが見えません。精神はイデアが他者を形成し、他者がイデアを観察するプロセスです。しかし、この他者は完全な他者ではなく、イデアそのものであるため精神を通じて表現されます。世界帝国(das Reich)は、精神の歴史としての歴史の完成であり、最終的かつ絶対的なものです。

これがヘーゲルの哲学システムの全体像です。

「ヨーロッパ近代の政治イデオロギーへのヘーゲルモデル適用について」

ヘーゲルの哲学体系を全体的に見ると、その体系が共産主義や自由主義などの政治イデオロギーに対してどのように適用されるかが明らかになります。

マルクスがヘーゲルの哲学に基づいて自身の体系を構築したことは周知の事実です。マルクスによる歴史の再構築は階級を分析の基盤とするものの、ヘーゲルのシナリオを概ね踏襲しています。ただし、マルクスの唯物論的かつ階級的な理論では、イデア・イン・セルフの優位を否定し、弁証法的連鎖の第二要素である自然、すなわちアンチテーゼからその独自の体系が始まる事によって「歴史の終わり」が世界帝国(das Reich)ではなく、国際的な無階級社会である共産主義となります。

しかし、マルクスにとっても共産主義には資本主義の段階が先行し、それがまず世界的な現象になる必要がありました。しかし、ヨーロッパのマルクス主義者や、スターリンと決別したトロツキストたちはソ連を「マルクス主義の歪曲」であると主張し、このように左翼ヘーゲル主義において世界プロレタリア革命に先立つグローバル資本主義の構築の段階として、ある種の世界帝国(das Reich)が想定されていました。

一方で、コジェフ[6]やフクヤマ[7]などの自由主義理論家はヘーゲルを異なる視点から解釈しました。彼らはマルクス主義革命や階級的アプローチを否定し、人類の統合を通じて「歴史の終わり」が起こると考えました。これは資本主義とブルジョア国際主義の完全な勝利を意味するものですが、彼らは階級を否定して平等が進化的な方法で達成されると考え、中産階級が全人類に広がると信じていました。

このように、マルクス主義者と自由主義者は、ヘーゲルのシステムを一部分だけ採用した上で質的に歪めています。
彼らは"ヘーゲルの国家"つまり精神の形態として市民社会を超越するものを認めようとはしません。ヘーゲルは家族に根ざした道徳的個人が、市民社会からの疎外による否定的瞬間を自覚した後、精神の働きの影響を受けてこの段階を克服し、さらに市民社会の否定を通じて立憲君主制に移行すべきとしていますが、自由主義者は市民社会のレベルに留まり、家族を超越するものの資本主義やブルジョア民主主義を超越することが出来ません。この原因によって彼らが"ヘーゲルの理解する国家"としての精神の上昇の瞬間には至らないのです[8]。ヘーゲルは、国家が市民社会に先行するのではなく、それに続くものであると強調しています。少なくとも、彼の体系において問題となっている君主制とは、市民社会が歴史的に旧型の君主制を打ち消すものですが、哲学的君主制、すなわち精神の国家に先行するものとして位置づけられています。

ヘーゲルの体系を全体的に見ると、自由主義的およびマルクス主義的解釈が国家と法の分野でヘーゲルの思想から著しく逸脱しており、「歴史の終わり」という概念を深刻に歪曲し、ヘーゲルの国家の存在論を根本的に含んでいないことが分かります。ヘーゲル自身は、精神の上昇の瞬間としての国家(der Staat)の存在論から「歴史の終わり」の意味を導き出しており、市民社会の国際化を「歴史の終わり」として理解する時、マルクス主義の階級基準の有無に関わらずヘーゲルの"歴史哲学の全体構造"を完全に変化させてしまい、哲学的君主制の創造という"精神の国家の段階"に至る前に終わってしまうのです。

ヘーゲルに近い立場をとったのは、ジョヴァンニ・ジェンティーレのようなヘーゲル右派でした。彼らは国家の概念をヘーゲル的文脈に位置づけ、市民社会の除去として捉えました。このような国家は、ポストブルジョア、ポスト資本主義的でなければなりませんでした。

驚くべきことに、ロシアのボリシェヴィキもヘーゲルに近い立場をとりました。彼らは最初、一国でのプロレタリア革命の可能性を説き、その後スターリンの下で一国社会主義の建設の可能性を説きました。左派の中にも市民社会を超越したポストブルジョア国家を構築する理論と実践が現れました。スターリンの下で形成された体制を自然発生的な「君主制」と見なすと、それはまさにヘーゲルの論理に完全に適合します。

「ヘーゲルの国家とは」

ヘーゲルの体系において、精神の道徳的展開の頂点としての国家について語る際、それは任意の国家ではなく、市民社会が取り除かれ、克服された国家を指しています。正にそのような国家、つまり民主主義(立憲)以後の君主制国家間で国際関係のシステムが形成されます。

こうした関係には重要な哲学的要素が含まれています。一方で、他の国家の存在は精神が各国で達成する哲学的一般化の度合いを弱めることを示しています。他国の存在はそのような表現の不完全さと非終結性を強調し、国際関係システムは否定を表しています。国際政治における精神はその限界と形式と相対性を認識します。これが戦争の哲学的根拠であり、否定的瞬間の働きです。

しかし、国際政治は最高の哲学的意味を獲得します。ここで最後から二番目の行為が展開され、「歴史の終わり」と言う精神が絶対化される最終形態の達成が行われるからです。国際関係における過程ほど意味深いものはなく、国際関係は精神の瞬間を表し、精神の最後の帝国(Reich)がどのように構築されるかが決定されます。

ここでは、道徳的領域の頂点、そのアポジーに近づいています。ヘーゲルによれば、歴史の全てが精神の世界帝国(das Reich)への動きとして、国際関係がこの目標に非常に近いものとして存在することを意味します。これは未来が最も濃密な影を落とす瞬間、すなわちフッサールの「adumbratio」です。

「20世紀における準ヘーゲル的国家の例」

共産主義的なヘーゲルの解釈や自由主義的な解釈は、ポスト民主主義国家の理論を欠いており、国際関係のこのような解釈に到達できないという点については、以前にも述べました。しかし、20世紀に目を向ければ、実際の世界政治において、このような体制を扱っていたことがわかります。

スターリン時代のソ連は「ポストブルジョア帝国」を代表していました。枢軸国もまたポスト民主主義で、その理論的正当化はヘーゲル自身の哲学的君主制に最も近いものでした。西側の自由主義体制、特にイギリスとアメリカも、国家性を弱めることはなく、実際には強力で中央集権的な政治体制を構築しました。この観点が妥当であれば、20世紀の国際関係をヘーゲル的に読み解くことができます。この分野の主要な動きは、自由主義、ソビエト、国民主義の3つの政治イデオロギーがそれぞれのブロックの中心となり、「歴史の終わり」を巡る闘争で衝突したことで、深い哲学的意味を持つようになります。世界帝国(das Reich)における精神の最終的な解決の前夜、これら3つのイデオロギーは、それぞれの主要国を拠点にして、歴史の終焉を争っていました。

「20世紀と国家のシミュラークル」(симулякр・シミュラークル=模造品*訳者によって本文中で言及される"擬似的形態国家"を指し示す言葉をロシア語から引用したシミュラークルと言う日本語的造語で補う事とした。)

20世紀末には、この1世紀にわたる対立の結果を要約し、国際関係を次のように解釈することが可能でした。最初にソ連(左翼ヘーゲル派)とブルジョア帝国(アングロサクソンを代表とする条件付きリベラル・ヘーゲル派)の同盟が枢軸国(ヒトラーの第三帝国とムッソリーニのファシスト・イタリア)を打ち負かしました。この枢軸国は右翼ヘーゲル派に相当します。続いて冷戦期にリベラル派が最終的に勝利し、フクヤマがリベラル・ヘーゲル派のマニフェスト「歴史の終わり」を世界社会主義体制が崩壊した直後に記述したことは象徴的です。1990年代には、「世界帝国」は強力なアメリカ超大国とヨーロッパおよびアジアのリベラルな衛星国によって構築されたリベラル・デモクラシー体制になると考えられていました。

しかし、ここで重大な矛盾に直面します。一見すると、コジェフが詳細に示したヘーゲルのリベラルな解釈が勝利したように見えます。ここで重要な役割を果たしたのは、ヘーゲル主義に深く染まっていたアメリカの新保守主義者でした。彼らは、ロシア精神やロシアのアイデンティティと密接に結びついていたスターリン主義的な路線を国際主義の背信と見なし、アメリカのトロツキストたちはリベラル・グローバリストに味方しました。彼らはブルジョア資本主義社会を惑星規模で構築するために手を貸し、国家、民族、宗教、あらゆる地域的アイデンティティの完全な廃止を目指しました。これはマルクスの教えに従った世界プロレタリア革命を実現するための前提条件でした。世界革命は世界資本主義の完全な勝利まで延期されました。

市民社会のレベルにとどまり、精神の表現の瞬間としての国家の哲学的意義を認識しなかったリベラル・ヘーゲル派は、最終的な帝国に完全に対応することができませんでした。特に、ヘーゲル体系の精神的前提はマルクス主義によって形式的に否定されリベラル派にとって大きな役割を果たさず、システムの起源にブラックホールがあるならば、それはリベラル文明がその最高の勝利の瞬間に直面したのでした。一貫したリベラル・ヘーゲル派のコジェフが、ヘーゲルの死、否定性、無のテーマにこれほど注目したのは偶然ではなく、無神論者の目を通してヘーゲル体系を読むと、精神の最終的な帝国(das Reich)は惑星ニヒリズムの散発的な勝利に変化するのです。

この時代の転換点に起こったことは、イスラム過激派による米国への最初の鮮烈な打撃として、ニューヨークの世界貿易センタービルのツインタワーが倒壊するという象徴的な瞬間として表現されました。ヘーゲルモデルの国際関係哲学の観点から見ると、2001年9月11日は20世紀全体の重要な瞬間でありました。勝利した世界帝国の代わりに、人類の前に無の深淵が広がり始めたのです。

このことから、ヘーゲルの基本的な論理に従って、起こったこと、そしてこれから起こることをすべてヘーゲル的な用語で翻訳し、考え直す必要がありました。

「ヘーゲルと21世紀前半3分の1の政治地図」

21世紀初頭の状況にヘーゲルの精神展開の瞬間の真正な解釈を適用すると、以下のような図式が得られます。20世紀の出来事は、リベラリズム、スターリニズム、ファシズムという3つの哲学的(イデオロギー的、イデアに基づく)国家の形成と一見類似しているものの、実際には、本格的な国家へのアンチテーゼと統合への前兆としての国際関係の真の瞬間ではなく、市民社会の上ではなく下に位置する反転世界でした。これら3つの陣営は、完全な意味でのヘーゲル的国家ではなく、歪んだ市民社会のレベルに留まっていました。特に、アメリカやアングロサクソンに代表される自由主義の勝利は、帝国ではなく、リベラル民主主義ブルジョア型の準国家(Not-Staat、aussere Staat、またはvor-Staat)が勝利したことを示しています。グローバリズムは、精神が展開する最終瞬間に発見されたイデアの勝利ではなく、啓蒙主義の再加工であり、国家形態に急速に組み込まれたものです。つまり、私たちはポスト民主主義国家の創造に続くヘーゲル的国際関係の瞬間ではなく、それに先立つ状態にあります。

「かつてない国際関係」

"ヘーゲルの精神展開の瞬間の解釈"を21世紀第1四半期の状況に適用すると、次のような展開が見えてきます。
20世紀のイデオロギー国家の対立は、3つのイデアの形態ではなく、真のオリジナルに先行する歪曲されたバージョン、すなわち"シミュラークル"だったと認識されるべきです。これらは、まだ受肉していない本物の哲学的君主制が投げかける未来からの影(フッサールによるadumbrations)でした。1990年代の自由主義の勝利は、国際関係の最終的な和音ではなく、市民社会がまだ真の国民に発展していないためです。

ヘーゲルによれば、国民は市民社会、つまり資本主義を克服することで出現します。しかし、ソ連も中欧の枢軸国も真に資本主義を克服したわけではありません。自由主義者の勝利は「歴史の終わり」ではなく次の段階、真の国家への人類の準備だったのです。

多極化世界は、新しい人間と哲学的国家の人間が現れる次の道徳的順序の瞬間への移行として求められており、これらの人々は家族を放棄するのではなく、その倫理的構造に根ざし、それを哲学的君主制の方向に拡大し高揚させます。多極化世界の極は、断絶し原子化された市民社会を克服する過程で形成される哲学的君主制でなければなりません。したがって、私たちはまだ世界帝国(Das Reich)への道の第二の弁証法的瞬間、すなわち国際関係そのものを通過していません。それは私たちの前にあるのです。

さらに、ヘーゲル的意味での完全な国家もまだ完全には現れていません。中国とロシアは今日哲学的君主制の創造に最も近くインドもこの方向に進んでいますが、重要な瞬間は西側諸国が弁証法的変化を遂げるときです。西側諸国でも自由主義的な擬似帝国ではなく、今日のような自由主義的なノット・スタートではなく、真の国家が出現するときです。フクヤマのようなヘーゲル的リベラル主義者でさえ、彼の「歴史の終わり」のバージョンが失敗したことを認め、「国家建設」への志向を宣言しています。しかし、熱心なリベラル派にとって、民主主義を克服して君主制の縦割り組織に移行することの哲学的価値を理解することが難しく、ヘーゲル国家に似たものを真に創造しようとすると同時に、自由主義と市民社会を修正された形ではあるが維持しようとする試みは、還元しがたい矛盾を含んでいます。西側諸国における真の国家建設の理論家たちと、実践者たちはその時を待っています。

そして多極化した世界が多かれ少なかれ構築されたときには、道徳的瞬間の基礎に従う形の完全で絶対的な自己表現を切望する精神の直接的な影響の下に構築された、本格的な哲学的ポスト民主主義(立憲)君主制国家や非自由主義的階層国家が世界に一定数出現したときに初めて、私たちは次の弁証法的段階に進みます。多極化する世界に没入するこの位置からのみ、私たちは究極の視点から究極の未来を見通すことができ、真の精神の最終帝国(das geistliche Reich)、すなわち完全な表現に達した普遍的イデア、ひいては「歴史の終わり」がどのようなものであるかについての予備的な考えを形成することができると言えるのです。

「ヘーゲル体系がドイツ政治に与えた影響」

ヘーゲルの国家論では、市民社会との弁証法的関係が重要視されています。ヘーゲルが執筆した時代、フランス革命と啓蒙思想は市民社会を古い君主制と対立させました。この時期にヘーゲルが『法の哲学』を執筆し、国家の形而上学的・弁証法的な地位を確立しました。ヘーゲルは単に旧来のヨーロッパ君主制について言及するのではなく、新しい哲学的概念としての国家について論じています。この点で彼はプラトンに近づきます。真の国家とは哲学者によって設立され、統治される国家だけです。ヘーゲルはそのような哲学的国家は市民社会の後にのみ可能だと主張しており、市民社会の前では国家は有機的で内在的で、道徳の領域に必要な自己意識が欠けています。市民社会は国家を外的に(外部国家[13])として確立することしかできません。これは市民社会が国家なしで自立するときにその運命が終わる「夜警」としての国家の役割です。

哲学的国家に到達するためには、理性的で意志的な市民社会—カントの意味での道徳的であり、すでに道徳的(すなわち家族に基づく)—善意による—道徳的成熟と哲学的洞察のしるしとして、ホッブズ的意味での状況の影響ではなく、自己克服を決意しなければなりません。新しい国家は自由主義ブルジョアジーが自己を否定する行為として資本主義を克服し、それが除去されなければなりません。一度市民社会が国家内で廃止されると、そこに戻ることはできません。ブルジョアジーは権力を哲学的君主に譲渡し、そこで道徳的イデアが完全に展開されるのです。

ヘーゲルが著作を書いたのは、プロイセンを基盤とするドイツ帝国の誕生直前でした。ハプスブルク家のオーストリア=ハンガリー帝国とは異なり、第二帝国はヘーゲルの新しい国家の歴史的表現となるべきでした。ヘーゲル派はビスマルクによるドイツ帝国の創設をそのように受け止めました。この帝国の形而上学的正当化と哲学的予言におけるヘーゲルの功績は、初期には広く認識されました。シュペングラーによって詳細に分析されたプロイセン精神は、ドイツ帝国がブルジョアジーの個人主義を否定する軍事的奉仕の原則に基づいていることを強調しています。

この状況では、国際関係がすべてを決定する要因となりました。ヘーゲルの理論によれば、哲学的国家は確立した後、国家形成に続く次の弁証法的段階、すなわち国際関係システムに移行します。こうして、国際政治はその哲学的な内容を獲得しました。

第一次世界大戦は、ドイツが精神の弁証法における位置を試される重要な局面でした。新たに成立したドイツ帝国と、市民社会が未だ克服されていない古い国家であるオーストリア=ハンガリー帝国は、自由主義的な連合国と対峙しました。その結果は、歴史が証明しています。

しかし、哲学的観点から重要なのは、第二帝国が完全な哲学的国家に至らなかったことです。これは、第一次世界大戦での敗北後、ドイツ社会が再びリベラリズムへと傾いたときに明らかになりました。ワイマール共和国は典型的な市民社会であり、第二帝国の遺産が徐々に薄れていきました。結果として、この市民社会は真に克服されず、ドイツ帝国はヘーゲルの概念に基づく国家の例としては模造品に過ぎなかったのです。

また、ヒトラー下でのポストブルジョアジー国家の設立試みも、模造品であることが明らかになりました。少なくとも、ハイデガーが言及した「精神的な国家社会主義」は、哲学的国家を目指す試みとして一部の哲学的なコミュニティで理解されていました。

再び、国際政治は哲学的国家を主張する第三帝国と、スターリンが加わった自由主義陣営との対立となりました。マルクス主義理論によれば、ソ連はポストブルジョアジーでしたが、市民的な社会の表現にすぎず、実際にはスターリン体制は資本主義を乗り越えた倫理的な国家モデル、すなわちヘーゲル主義に近いものでした。ソ連での支配的な哲学者は、イデオロギー的なボリシェヴィキに取って代わられ、それはロシアのユーラシア主義者たちに完全に理解されました。

その後のドイツは市民社会へと崩壊してすべての主体性を失うと共に、EUとグローバリゼーションに溶け込んでしまいました。

ヘーゲルの観点からこれは何を意味するか考えてみます。第二帝国も第三帝国も哲学的国家ではなかったということであり、彼らは啓蒙の時代に属しそれを克服することができませんでした。市民社会を克服しようとしたものの、資本主義は彼らが精神が展開する次の歴史的段階へと進むことを阻み、これらは新しい国家ではなく、そのような国家を創設しようとする失敗した試みに過ぎませんでした。この事からわかるように、ヘーゲルの思想は過去を記述するものではなく未来を洞察するものです。西洋にはまだヘーゲル的な意味での国家は存在せず"自由主義的グローバリゼーション"の広がりと"ヨーロッパの伝統的な国家の並行的な消滅"はこれを強調しています。

ヘーゲルの道徳的体系から見ると、西洋はまだ「国家」と呼ぶべきものを作り上げていません。つまり国際関係は、「歴史の終わり」すなわち精神の世界帝国(das geistliche Reich)と普遍的アイデアに近づいた時にのみ現れる哲学的重要性をまだ獲得していないのです。

「多極化」 -未来の到来-

現在の多極化した世界は、市民社会、特に資本主義と自由主義の全世界的な広がりを克服しようとする初期の体系的試みを体現しています。中国、ロシア、イスラム世界などの多極世界の様々な拠点における非自由主義的傾向は、ヘーゲルによる新しい国家への移行の初期の兆候として捉えられます。ここでの重要な点は、資本主義の撤廃に向けた弁証法的運動です。中国ではこの動きが顕著に見られ、ロシアではやや控えめです。一部のイスラム思想家もこの点を明確に理解しています。つまり、私たちはヘーゲル的な意味での国家の出現の入り口に立っていると言えます。

西洋が市民社会と同一視され、啓蒙主義と自由主義イデオロギーの枠組み内に留まっている間は、ヘーゲル的な意味での国家については語ることはできません。フクヤマが新たな「国家建設」を正当化しようとした試みも、ロックやヴォルテールの理論からは大きく逸脱していません。彼らは啓蒙的な支配者が社会を民主主義に導くために必要だと考えました。フクヤマによると、西洋の現代政治体制はこの機能を果たしていないため、啓蒙されたリベラルエリートによる一時的な寡頭政治が必要だというのです。しかし、これはすべて市民社会の規範を全世界的にさらに効果的に実施するためのものであり、それを克服するためのものではありません。そのため、ヘーゲル国家については話すことはできません。

一方で、非西洋国家の非自由主義的な拠点が強化されることに対して、西洋自体が非自由主義的な方向に向かう可能性を完全に排除することはできません。これまでのところ、これらは周辺的な傾向であり、自由主義の独裁によって迅速に抑え込まれています。つまり、西洋はまだヘーゲル的な意味での国際関係の領域に達しておらず、国家のレベルにも至っていません。しかし、この問題の重要性は高まっており、極右運動の出現、特にヨーロッパとアメリカにおいて顕著です。西洋世界の周縁部では、ウクライナやイスラエルのような人種差別的な代理戦争への支援が見られます。原則的に、地域的な現象としてのイスラエルは、西洋が市民社会を克服し、ある種の非自由主義的イデオロギーの方向へと進む道を歩み始めた場合のモデルとして考えられます。しかし、これはまだ未来の計画ではなく、むしろ西洋によってイスラエルで許されたヨーロッパのナショナリズムや人種差別の反映です。これはナチス時代のユダヤ人への苦しみへの道徳的共感に基づくものです。

ヘーゲル的な意味での国家への転換は、西洋が自由主義を完全に放棄し、意識的に克服することを要求します。それが実現するまでの間、西洋文明は前のスパイラル(Not-Staatのレベル)に留まり、それ自体が他の拠点と比較して急速な衰退につながる可能性があると言えるのです。

「国際関係と終末論」

ヘーゲル的な読み方に基づく多極世界と、キリスト教伝統が描く「歴史の終わり」(すなわちヘーゲルの「歴史の終わり」)に隣接する時代を比較してみましょう。

ヘーゲルにとっての歴史の実際の終焉は、精神が自己認識のサイクルを経て絶対化する過程を意味しますが、キリスト教ではこれをキリストの再臨や聖ヨハネの黙示録に記述された天のエルサレムの地上降臨として捉えます。これは新しい天と新しい地の出現を意味し、真の人類統一は死者の復活と最後の審判の瞬間にのみ成就されます。精神の帝国(das geistliche Reich)は、天の王国(das himmliche Reich)や神の王国(das Gottesreich)と解釈される場合があります。政治や歴史の中に精神の展開を見るヘーゲルの視点からは、この関連付けは妥当であり、彼の思想や体系を明確にするものです。ヘーゲルはキリスト教徒であり、彼の理論はキリスト教の基盤に立っています。

この観点から、新エルサレムの出現に先立つ国家間の国際関係は、黙示録の文脈に位置づけられるでしょう。ヘーゲルの国家は、黙示録に登場する天使や、リヴァイアサンやベヒーモスのような海や陸の獣の姿と対応するかもしれません。ホッブズがリヴァイアサンを国家のメタファーとして選んだことや、シュミットが海の力(Sea Power)や陸の力(Land Power)としてそれらを同一視したことは示唆的です。

このような解釈はヘーゲルの理論に適合し、彼の思想はキリスト教の観点に立っています。多極世界の中心はヘーゲル的な意味での国家であり「市民社会」「資本主義」「ブルジョア体制」「自由主義イデオロギー」が根本的に克服された存在です。リベラリズムの否定の"否定の過程"でのみ国家が成立します。西洋の自由主義社会における黙示録の接近の兆候にもかかわらず、人類にはさらなる歴史的サイクルが待ち受けており、世界の国際関係システムはその意味と重要性が以前のサイクルをはるかに超えることを示唆しており、世界史の終末に近いことは多極精神の歴史において重大な意味を持っていると言えます。黙示録の天使と悪魔のイメージが、世界史のクライマックスにおける霊的存在(天界と地下界)の直接的かつ明白な参加を象徴しています。

このように多極世界は安定した問題のない存在形態ではなく「世界史の非常に強烈な瞬間」であり"ダイナミック"且つ重要であり"最も深い歴史的意味"において決定的な存在であると見ることができるのです。

 

翻訳:林田一博
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